『吃音』(近藤雄生著)

本を読みました。

『吃音』(近藤雄生著)

「吃音」は近年の法制度の中では、「障害」のひとつとして位置づけられています。精神的な問題や、医学的に治療できるいわゆる「病気」ではないということでしょうか。

「病気」と「障害」をムリヤリ区別するなら、「病気」は治療によって不具合が消失するか改善が見込まれるものをいう。一方、「障害」は治療によって不具合が消失することはなく改善も見込めないものをいう。つまり、「病気」は治療によって変えることができる流動的なものであり、「障害」は治療によっても変えることができない固定的なものであるということになる? これは、あまりにもムリがありまね。

そうです、ことはそんなに単純ではありません。たとえば、構音障害(発音の障害)の場合、特にそれが器質的な原因で起こっているのではないなら、一定の訓練によってその不具合を消失させたり改善させたりすることができます。また、たとえば聴覚障害という器質的な障害が原因で起こっている構音障害であっても、訓練によって不具合を改善することができます。聴覚障害という器質的な障害は変えられなくても、そこから派生した構音障害は改善できるのです。

また、聴覚障害という障害にしても、補聴器によって聞こえにくいという不具合の幾分かを改善することができます。そのことがまた、構音の改善にも繋がっていきます。さらに聴覚障害は人工内耳等の医学的治療によっても、聞こえにくいという不具合の幾分かを改善することができます。そのことが構音の改善に繋がるのは補聴器の場合と同様です。

このように、「障害」は「病気」と比べて固定的だとはいっても、医療の進歩や補装具、訓練方法の発展によって、かなり流動的な面を持つものです。医療や補装具、訓練の最善を尽くした後に残る不具合が「障害」なのかもしれません。

一方、「病気」にしても「難病」といわれるもののように、原因が解明されていないものや治療法が確立していないものもあります。これは、現時点では治療によっても変えることができない固定的なものであるということになります。そういうこともあってか、近年の法制度の中では「難病」も「障害」の枠で捉えられています。

「吃音」が法制度の中で「障害」として位置づけられることによって、障害者手帳の取得もできるようになりました。微妙なのは、「言語障害」として「身体障害者手帳」がとれる場合と、「精神障害」あるいは「発達障害」として「精神障害者福祉手帳」がとれる場合があるということです。

ともかく「吃音」も「障害」の枠の中で捉えられるようにはなっていますので、障害者として一定の配慮を受けながら社会に参加する道が開かれています。しかし、治療や訓練による改善の可能性が見え隠れするような部分もあります。吃音の難しさも、ひとつはそのことだと思います。

この難しさは、「吃音」に特有ということではなくて、たとえば聴覚障害でも二つの立場があります。一つは「きこえない」ということをあるがままに受け入れて、人工内耳手術や補聴器のことで悩んだり発音の練習に時間を費やしたりするよりも、手話を自らの言語として手話によってコミュニケーションをとりながら、「ろう者」として生きていくという立場です。もう一つは、自分の耳で聞き自分の声で話すことで社会に参加できる可能性を追求したいという立場です。

近藤雄生氏の『吃音』は、聴覚障害であれば後者の立場に軸足があると思われます。つまり、「吃音」を改善、克服する可能性を追求する人たちの思いに寄り添って書かれています。苦しいことの多い現実をたくさんの事例を踏まえて丁寧に文章に書き起こしています。わたしは、これが多くの吃音者の現実なんだと思います。

ただ、吃音者の苦しい現実は、社会の無理解や制度の不備によるものが極めて大きいということも見ておかなくてはなりません。その点についてもしっかりと書かれている本です。その意味でも、多くの人に読まれるといいなあと思いました。

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